お金と恋と、
自由のはなし。
——経済的自由を夢みる、ふたりの話。
※ オリジナル創作 / フィクション自由の土台
「お金持ちになりたいわけじゃない。
ただ、自由になりたいだけだ。」
春の終わりの、午後二時。
あかり(本名は知らない。でも、そう呼ばれている)は、コワーキングスペースの窓際でノートパソコンを開きながら、じっとスプレッドシートを見つめていた。
画面には、毎月の収支と資産推移がびっしり並んでいる。今月の貯蓄率、来月のNISA積立額、三年後の試算——。数字を眺めるたびに、じわりと焦りが滲んでくる。
三十五歳までに、経済的自由を手に入れる。
それがあかりの目標だった。もう何年も、そこに向かって走ってきた。でも今日は、なぜか、その数字の向こうに何があるのか、急にわからなくなっていた。
そのとき、隣の席に誰かが座った。
気配でわかった。椅子を引く音。ノートパソコンを開く音。コーヒーカップを置く、静かなコトン、という音。それだけなのに、あかりは顔を上げてしまった。
男だった。
三十代前半くらいだろうか。黒縁のメガネ。白いシャツの袖が几帳面にふたつ折りにされていて、でもその几帳面さは本人にとってたぶん無意識だ。そういう感じがした。ノートパソコンを開くと、一切迷わずコードを打ち始めた。
あかりはすぐに目を戻した。
でも、ひとつだけ気になるものを見てしまった。ノートパソコンのサイドに貼られた、小さな🦁のシール。
あかりの口元が、知らずゆるんだ。
声をかけたのは、それから三十分後のことだった。
きっかけは、男のスプレッドシートの画面がちらりと見えたことだ。列の名前に、見覚えのある言葉が並んでいた。「繰上返済額」「利息軽減効果」「完済月」。
気づいたら、口を開いていた。
「……借金返済のシミュレーターですか」
男が顔を上げる。驚いた様子はなかった。ただ静かに、あかりを見た。
「作ってます。知り合いに頼まれて」
「お金もらって?」
「いや、タダで」
あかりは少し黙った。
「……優しいんですね」
「そういうわけじゃないです。ただ——」
男は少し考えてから、続けた。
「借金のことって、正直に話せる場所が少ないじゃないですか。シミュレーターがあれば、自分で数字を見て、自分で考えられる。誰かを頼らなくても」
あかりはその言葉を、しばらく頭のなかで転がした。
「お金の勉強、してるんですか」
「少し。あなたも?」
「してます。あかりって言います、ニックネームで」
「RIOです。同じく」
自然に名乗り合った。本名かどうかなんて、誰も聞かない。この場所では、それが普通だった。同じ方向を向いている、ただそれだけで十分だから。
しばらく並んで作業していると、RIOが不意に言った。
「FIREを目指してるんですか」
あかりは顔を上げた。
「……なんでわかるんですか」
「さっき、取り崩しシミュレーションの列が見えたので」
見られていた。でも、嫌な感じはしなかった。
「してます。三十五歳までに」
「なんで三十五歳なんですか」
あかりは少し考えた。こんな質問、されたことがなかった。みんな「いつまでに」は聞いても、「なんで」は聞かない。
「……正直、最初は数字のためでした。目標があったほうが動けるから」
「最初は、ということは、今は違う?」
あかりは少し黙った。今日、スプレッドシートを眺めながら感じた、あの空白のことを思い出した。
「今日、急にわからなくなって。自由になったら何をするのか、って」
言ってから、初対面の人にこんなことを話している自分に気づいた。でも、RIOは笑わなかった。ただ、少し遠くを見るような目をして、
「僕は」と言った。「お金持ちになりたいわけじゃないんです」
あかりは黙って続きを待った。
「ただ、自由になりたいだけで。——でも一個気づいたことがあって」
RIOはそこで一度、コーヒーカップに手を伸ばした。飲まずに、また置いた。
「自分だけ自由になっても、あんまり意味ないんですよね」
「……どういうことですか」
「好きな人が自由じゃなかったら、一緒に好きなことができないじゃないですか。スケジュールも、お金も、気持ちも、合わなくて。だから——自分の周りの人から、自由にしていきたくて」
あかりは、その言葉をうまく受け取れなかった。
受け取れなかったというより、受け取りすぎてしまって、どこに置いたらいいかわからなかった。
ずっとひとりで走ってきた。ひとりで数字を積み上げて、ひとりで自由を目指してきた。それが当たり前だと思っていた。でもRIOの言葉は、その当たり前に、静かにひびを入れた。
——その「好きな人」って、誰のことだろう。
聞けなかった。
RIOはもうコードに戻っていて、あかりも画面に目を落とした。さっきまで焦りしかなかったスプレッドシートが、なぜか少しだけ、違って見えた。
帰り際、コミュニティのチャットを開いた。もくもく作業部屋に進捗を書こうとして、ふと気づいた。
RIOが、同じチャンネルに投稿していた。
今日、久しぶりにお金の話で盛り上がれた気がする。
誰かの一歩になりますように 🦁
あかりはスマホを胸に押し当てた。
「久しぶりに、お金の話で盛り上がれた」。
それが自分のことかどうかは、確かめようがない。でも、そうだったらいいと思った。そうだったらいい、とこんなに強く思ったのは、お金の話でははじめてだった。
——お金の勉強のためなのか、それとも別の何かのためなのか、
あかりにはまだ、わからなかった。